2012年5月13日日曜日

サンデル&葉隠で、いじめ問題の善・悪について考えました!

厚生労働省に寄せられたパワハラ(職場いじめ・嫌がらせ)に関する相談件数において2002年度は約6600件だったものが2010年度には約4万件に急増したことからも、「いじめ」について深く考えておくことはこれから社会人になる人にとって必要だと思います
とはいえ、難しく考える必要はありません。映画やアニメ、特撮などでわかりやすく考えることができるようにします。

 *強いものが苛められるのか?弱いものが苛められるのか?

苛めには2つのパターンがあると思います。
「弱い者(もしくは変わり者)を苛める」と
「出る杭は打たれる」という苛めという2パターンです。

*弱い者、変わり者が苛められる場合*
 学校でも、企業でも、共同体が出来上がると、その結束を強めるために、「敵」が必要となってきます。要するに、「いけにえ」です。弱いモノがその「いけにえ」として選ばれます。「ドラえもん」の例でいうと、草野球で負けた時に、「のび太のせいだ」と言うことで、ジャイアン率いるチームはこれまで通りの結束を保持していくことができるというあの方法です。
 「アイツは変だ」「アイツは弱い」と確認しあうことで「自分の強さの確認」「自分たちのアイデンティティを確立する」ことができます。しかし、この方法は組織を腐らせます。そしてなにより、「いけにえ」の人生をダメにしてしまいます。社会自体、どんどん変化し、新陳代謝を繰り返します。だから組織も新陳代謝していくべきなのです。変化をもたらすのは「これまで言わなかったことを空気を読まずにあえて言える変なヤツ」であり、その「変なヤツ」を排除していく方法で共同体を保持していくのならば、その共同体自体に腐敗が起こります。

また、能力主義の企業においては、無駄にしか思えない「弱者」であっても、「弱者も包含できる組織になるため」という成長へのモチベーションに繋がる可能性があります。反対に、「アイツは弱い、自分は強い」と弱者を喰い物にして狭い範囲での確認作業に執心している者は、まったく別の「大いなる第三者の強者」にいとも簡単につぶされるものです。
 このサイクルを分かりやすくストーリー化しているのが「帰ってきたウルトラマン」第33話「怪獣使いと少年」です。河原で穴を掘る風変りな少年は周囲に「宇宙人」だと噂され、苛めの対象となります。

「ご近所」というコミュニティ、子供たちのコミュニティの中では意味もわからず穴を掘る少年は肉親とも離れ、差別対象となって食べ物すら売ってもらえない弱者であり、穴を掘り続ける「変なヤツ」であり、恰好の「いけにえ」です。実は、その少年は宇宙人ではなく、命の恩人である宇宙人(見かけは老人)と共に暮らしているという奇抜なストーリー展開に観ている側がなかなかついていけませんが、このお話の深さはもっと別のところにあります。見かけは老人である宇宙人は「ムルチ」という怪獣を封じるという、地球にとっての「善」を為しているのですが、小さなコミュニティに固執している人々は少年と老人を排除対象とします。そして、老人が殺されたとたん、老人が封印していた怪獣ムルチが暴れ出して、今度は宇宙人を排除しようとした人々が破壊の対象になってしまうのです。
 小さなコミュニティに固執し、異物を排除しようとするあまり、背後に迫る巨大な敵に気づかず、自己破滅的な展開になるこのお話。あまりに先鋭的な内容だったのでこの33話を監督した東條昭平はこの後ウルトラマンシリーズを去ることになりました。東條監督もまた、異物として排除される対象になったのでしょうか。いや、その後、東條監督は復活し、数多くの作品を手掛けることになりました。一歩先をいく感性の持ち主は組織にとって異物でもあり、新陳代謝を促すカンフル剤でもあるのです。

*出る杭は打たれるパターン*
「出る杭は打たれる」の「出る」というのは実際には何が「出て」いるのでしょうか。
能力・容姿・経済の3つに分けて考えてみましょう。能力の場合。これは勉強が出来るとかスポーツが出来るとか、そういった「能力」のことです。能力がある者はなぜ打たれるのか、その理由としてはこんな理由が挙げられるでしょう。「能力がある者はそれにより多くのものを手に入れる可能性があり、将来的にその可能性が開花した場合を想定して妬み、その可能性を潰そうとする」「能力のない者が能力のある者に出会うと、ない者のアイデンティティを脅かすから」。
ニーチェは「持たない者」の妬み嫉みを「ルサンチマン」といって、「持つ者」はこれを乗り越えて「超人」になるべきだと説きました。

出る杭ではなく、「出すぎる杭」になれば、周囲の人々は「違う世界の人」として認識し、妬み嫉みは憧れというプラスの感情に変わっていきます。スーパースターであるイチローはもはや妬み嫉みの対象ではなく、崇拝の対象となります。
しかし、学校や会社といった一般的なコミュニティに所属している場合、「目立つ」というリスクを冒すことは賢明ではなく、そのために、「持つ者」はさまざまな回避策を取るという方法があります。
 「道化になる」「目に見えるような成果を出すことをわざと避ける」といった方法です。太宰治が『人間失格』で書いていたように、「道化」は人を安心させます。「こいつバカだなぁ」と笑われることで身を守る方法です。しかし、これは「持つ者」の傲慢さの裏返しでもあり、この傲慢さは多くの場合、破綻を招きます。「道化」が周囲にバレてしまう場合もありますし、『人間失格』のように無理に道化を続けていくことで、愚かな他者に巻き込まれ、堕落していくこともあります。
また、宇佐美遊の小説『黒絹睫毛』の主人公のように、「もっと強い他者と出会い、本当の道化になってしまう」という破綻もありえるのです。『黒絹睫毛』の主人公は自分の美しさに酔う中学生が「他者から嫉妬されないために」という傲慢な理由で道化を演じます。しかし、高校に進学して、初めて自分よりも容姿が美しく、精神が高潔な女子に出会い、自己が破綻していきます。自分よりも美しく強いものに同一化しようと真似ばかりしている姿は滑稽で、それまでは「その他大勢」であると見下していたクラスメイトにまで馬鹿にされてしまうのです。
 女優ジョディ・フォスターが監督した映画「リトルマンテイト」は、天才児がわざと「普通の子供のマネ」をすることで、「普通の家族の愛」を取り戻そうとする物語です。
この映画はマイケル・サンデル教授の「平等」の議論にも通じるものがあります。

マイケル・サンデル教授は『これからの正義の話をしよう』のなかで、才能の有無の不平等についてロールズの考え方を用いて説明し、才能というギフトが評価されるのは「たまたま」だ、いうことを強調しています。



「リトルマンテイト」の天才児は、もし「肉体が強いことがすべて」という社会に生まれたならば、「小難しいことばかり言って何も役に立たない子供」として放り出される存在になる可能性があります。先ほどの宇佐美遊の小説のヒロインだって、もし平安時代に生まれていたとしたら、平安時代の美の基準からは大きく外れていて、傲慢さを持つどころかコンプレックスに苛まれていたかもしれません。小林よしのりの漫画『最終フェイス』はある女性とその母親が、メディアを使って、社会の美醜の基準をひっくり返すまでを描いた作品です。昨日まで美しいとされていたものが、「つまらない」とされ、そうではないとされていたものが評価されていく過程は面白おかしいという感想を超え、「社会とは何か」を我々に問いかけます。
最終フェイス (徳間コミック文庫)

*強いものと弱いものが共にいるということ*
 では、このような議論をふまえて、「出る杭は打たれる」に対し、私が出した結論は人気TV番組「笑点」の大喜利での円楽(旧・楽太郎)です。いきなり大喜利が出てきて??と思われるかもしれませんが、あの番組を見ると、「理想的なコミュニティだな」と思うのです。大喜利メンバーの円楽(旧・楽太郎)はデキるヤツです。どんなお題でも観客が「ほぉぉ~」と感心するような回答をするし、デキる上に、円楽師匠の名前を継いでいるし(CMのナレーションまで継いでいる)「嫌なヤツ」と弾き飛ばされかねない強い存在です。しかし、彼はそれを逆手にとって「キャラ」を確立しているのです。「デキるけど腹黒」という彼の「キャラ」は他のメンバーは面白がってネタにしています。
 他のメンバーも、「頭の回転が速いが、お嫁さんが見つからず独身でハムスターを飼っている」「奥さんがいるけど、尻に敷かれている」「天然ボケだけど副業(ラーメン・絵)で稼いでいる」「危険な人物っぽく見えるがそれをネタにしている」などそれぞれの個性を前面に押し出し、それを互いに認め合っています。彼らは、一見、お互いに貶しているように見えるが、実はそれぞれの個性をネタにして共存しているのです。目的は視聴者を楽しませること。その目標に向かって見事なチームプレーを成立させています。
 そして、着目すべきは座布団運びの山田くんの存在。彼はメンバーではありませんし、挨拶に参加してもちっとも面白いことが言えないのですが、大喜利のコミュニティ以外で自己の価値を得ています。彼は「大家族のパパ」「不動産業での成功者」という経済的にも愛情的にも成功者であるというアイデンティティがあるからこそ、余裕をもってチームメンバーになっているのです。

 大喜利というコミュニティでは、たまたま「お題に対しておもしろい切り返しができる」ことが自己の価値に繋がりますが、そうではない場で価値を得ていくという方法で、それぞれが納得して自分の道を歩んでいくことができます。

 もし学校や会社で才能が発揮できない場合、他のコミュニティで自己の価値を確証すればよい、ということですね。それは「家族」でもいいし、「趣味の世界」でもいいし、「ボランティア」でも、なんでもいいわけです。

 まとめると、「強い者に対する苛め」は、その他のメンバーが「このコミュニティではたまたま自己の価値は高くないけれども、あちらでは価値を得ている」といった風に、アイデンティティの軸をズラしていく方法で、回避できると思います。
 そして何よりも重要なのが桂歌丸師匠の手腕。

いつも冷静にメンバーのキャラの「出しどころ」を心得ていて、まんべんなく活躍の場を与えます。そしてさりげなく自分の「トリガラ」「ミイラ」という自虐ネタで周囲を和ませます。木久扇師匠がトチった時には、「トチったこと自体」を笑いに変えて進行していく見事な指揮者、歌丸師匠。コミュニティ内のリーダーの理想的な在り方のひとつが、歌丸師匠だと思います。そこには強者も弱者もありません。たくさんの凸凹をひとつのオーケストラに変えていくだけです。

*ケアされるべきなのは誰か*

私は講義で、「善ではなく、あえて悪について見つめ直す」ことを前提に、講義を進めています。ユング心理学の考え方では、他人を嫌悪するということは、無意識の中にある「自分自身の見たくない部分」を他者に重ねることに他ならないからです。いじめる側がそれに気づけばパワハラはずいぶん減るのではないでしょうか。
たとえば『ドラえもん』に出てくるジャイアンがのび太を苛めるのは、気が弱くオドオドしたのび太の中にジャイアン自身の「影」があるからなのです。では、ジャイアンが改心するか、もしくはジャイアンを排除すれば事態は解決するのかといえば、そうではありません。
のび太がドラえもんのひみつ道具「独裁スイッチ」を借りてジャイアンの存在そのものを消したエピソードがあります。ジャイアンがいなくなった世界では、なんとスネ夫がジャイアン化し、のび太を苛めます。つまり、「のび太」が根本的に変わらなければ、状況は何も変わらないのです。一方で、のび太がオトナになった姿を描いた「のび太の結婚前夜」では、のび太は立派なオトナになっており、ジャイアンやスネ夫と結婚式前日に酒盛りをします。ジャイアンもスネ夫も仲間としてのび太の結婚を祝い、人格を認めています。のび太は子供の頃にいじめっ子に鍛えられ、堂々たるオトナになるのです。
私自身も、嫌な思いをするたびに、そのマイナス感情がハイオクガソリンと化して前に進んできたタイプの人間です。プラスの感情など所詮はレジュラーガソリン程度の勢いしかありません。マイナス感情に火がついた時の爆発的なパワーは人間を駆り立てます。やがて「いじめてくれて、ありがとう」と言える日が来ます。
しかし、のび太が成長できたのは、とはいえ、ドラえもんという助力あってこそなのです。現実世界ではドラえもんのような賢者が助けてくれるとは限りません。そこで、もし私が、のび太の担任の先生になったとしたら、彼に武士道の書『葉隠』を手渡します。個人がパワハラや苛めに潰されないための実践哲学を身につけるためです。『葉隠』には「正義の上にさらに道がある」という教えがあります。自分の独善的な正義を貫くよりも、他者と話し、たくさんの本を読むことが道に繋がるという考えです。

ハーバード大学のサンデル教授は共同体の価値に重きを置く「コミュタリアン」の立場をとっています。ギリシア、ルネサンス、中世におけるような「共通善」を問い直す試みです。が、現代日本にはそのような「共通善」を見いだす母体はほとんど存在しないのではないでしょうか。太宰治は『人間失格』で「世間」というものはつまり「個人」のことだと書いています。私もそう思います。現代も「世間」というものは幻で、個人の「蔑み」や「嫉妬」などの細切れの感情の集合体が、仮にそう呼ばれているだけではないでしょうか。
一義的な善を押しつける教育は、スタンリー・キューブリック監督の映画『時計じかけオレンジ』に登場した矯正施設のように、悪の上に偽善を積み重ねて事態を複雑にします。だとしたら、「悪」の本質を学ぶことも必要です。


映画「バットマン」に登場する悪役ジョーカーや、トゥーフェイス、「スターウォーズ」のアナキンも、それぞれが子供の頃の劣悪な環境、愛の喪失等が原因で悪に染まりました。
いじめをする側にも、そうなるまでの経緯があったのです。いじめをしなければ自分を保てない人間ほど哀しい存在はありません。パワハラ問題を解決するには被害者側が「マイナス感情を、むしろ逆手に取って進むしたたかさ」を身につけること。そして「する側」には自己の理性に目を向けさせ、「いじめをする弱い心」を乗り越えられるようサポートすること、この2つの体制を整えることが大切だと思います。

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