2012年10月27日土曜日

特別企画☆MW岩井様からの御寄稿☆SEGAという愛すべき企業

「社会と企業」の講義で、
SEGAについて企業研究をしようという
ことになり・・・・・

資料がなくて困っていたところ、
MW岩井さんがSEGAについての記事を
寄稿してくださいました!
ありがとうございます!!

ちなみにMW岩井さんのツイッターアカウントはこちらです
https://twitter.com/mwiwai


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初めまして。MW岩井といいます。この度は、
古い友人である内藤理恵子先生から依頼を受け、
このblogに起稿させていただくことになりました。

■著者略歴
僕の経歴を簡単に説明させていただきます。
ファミコンブームの頃にゲーム専門雑誌がいくつか創刊されたので、「そこに載せて欲しい」と攻略記事を投稿しているうちにパソコンゲーム雑誌、月刊コンプティークからスカウトされたのが高校2年生の時。以来、いくつかの出版社を渡り歩きながら、人生の多くをゲーム雑誌とゲーム攻略本の編集に費やしてきました。「ゲーメストEX」および「ニンテンドードリーム」というゲーム雑誌では、編集長も任せていただきました。
さて、本題に移りましょう。

■1965年/ジュークボックスの輸入業者だった母体
セガの起源は意外と古く、1952年にジュークボックスを日本へ輸入するための企業、「サービスゲームズ」が起業されるところまで遡ります。1965年に、(有)ローゼン・エンタープライゼスと合併したことで、セガ(SEGA=SErvice GAmes)・エンタープライゼスと社名変更。1973年に、世界初のビデオゲーム『ポン』をコピーした『ポントロン』を発売し、日本では後に『スペースインベーダー』を発売するタイトーと共に、日本初のビデオゲームメーカーとなったわけです。

↑アタリの『PON』 ※画像の出展はwikipedia

ところが、タイトーはその後『スペースインベーダー』を発売したことでメガヒットを記録し、莫大な利益を上げていたのに対して、ビデオゲームデビューは同時だったセガはヒット作に恵まれず、米国のビデオゲームメーカーを買収するなど、迷走することになります。思えば、この頃からすでにセガ「らしい」兆候が見え始めていたわけですが…。

■1979年/アーケードゲームメーカーとしてデビュー
セガが一般…と言ってもゲーム好きに知られるようになったのは、1979年に発売した『ヘッドオン』や、1980年の『トランキライザーガン』。1982年に発売した『ペンゴ』『ザクソン』などのミドルヒット作。この時点で、セガはゲームセンター用のゲーム(アーケードゲーム)のメーカーとして一定の評価を得ていましたが、それでもトップを走るタイトーや、『ギャラクシアン』『パックマン』で追従したナムコの後塵を拝むことになっていました。そんなセガが社運を賭けて思い切った行動に踏み切ったのが、1983年に発売した安価なパソコン「SG-3000」と、そこからキーボードを外すなどしてコストダウンしたゲーム専用機「SG-1000」。

■1983年/家庭用ゲーム機の開発・発売
何の因果か、SG-1000/SC-3000の発売日は、1973年7月15日。直接の競合となる、任天堂のファミリーコンピュータと「完全に同じ日」に発売されることに。今にして思えば、これもセガ「らしい」出来事だったとも思えます。
SG-1000とSC-3000の主な差はキーボードの有無だったので、ここではわかりやすくSG-1000とファミコンを比較してみましょう。どちらもアーケードゲームのメーカーで、自社のソフトを自宅で、何度でも遊べる…というコンセプトを持っていましたが、その差はグラフィック。特に、キャラクターが単色でしか表示できないSG-1000は、解像度ではアーケードゲームに匹敵した能力を持ちながら、どうしてもプアなイメージを持たれがちでした。それでも、当時の開発者はその制約を技術とアイデアで乗り切ろうと頑張ったのですが…。

結果、売上はファミコンの圧勝となったわけですが、だからといってSG-1000が売れなかったわけではなかったようです。当時の売上数字を調べることができないのではっきりしたことは言えませんが、セガはSG-1000の後継機であるSG-1000Ⅱを発売したり、ゲームソフトをカートリッジ(カセット)ではなく、PASMOのような電子カードタイプのメディアへ切り替えるなど、新しい挑戦を次々と繰り出していました。その集大成と言えるものが、SG-1000発売から2年後に発売したセガ・マークIIIです。

■1985年/ファミコンに勝てる家庭用ゲーム機を
セガ・マークIIIのグラフィック機能は、まさにファミコンを(少しだけ)上回るもの。『テディーボーイブルース』や『ハングオン』『ファンタジーゾーン』など、セガのアーケードゲームがほぼそのまま移植できる…という利点を持っていたものの、ファミコンはこの時点ですでにナムコ、タイトー、コナミ、アイレム、サンソフト、ジャレコといった「セガとカプコン以外の」アーケードゲームメーカーが(グラフィック面は多少劣っていても)ファミコン版ソフトを出すようになり、パソコンゲームメーカー大手だったハドソンまでもがファミコンソフトを本気で作り始めていた時期。任天堂自身も、ファミコンソフトの決定版として『スーパーマリオブラザーズ』を出していたくらいの時期。
セガも頑張りました。当時大ヒットを記録していたアーケードゲームの大型筐体、『スペースハリアー』や『アフターバーナー』などを、チープなハードウェアであるセガ・マークIII上で再現するのは、それこそ想像を絶する努力があったかと思います。それに加えて、テクモやタイトー、アイレムなど競合他社の人気タイトルをマークIII用ソフトとして発売する、営業面的な快挙も成し遂げました。正直、セガファンはこのハードに満足していました。セガの頑張りに、涙しました。でも、それでもファミコンには届きませんでした。
要するに、セガ・マークIIIを買うのはセガファン。セガファン以外のゲームファンの心は、ファミコンに向かってしまっても仕方がない状況になっていたわけです。もちろん、敗戦国である日本人の血には、敗戦国というかマイノリティを応援したくなるスピリッツもあると思うので、そういうファンにも支えられていたのかもしれません。

しかし、それでもファミコンの牙城は崩せませんでした。でも、諦めない。それがセガスピリッツ。
セガ・マークIII発売から3年後の1988年、高性能CPUを搭載した新らしいゲーム機「メガドライブ」を投入します。

■1988年/ファミコンには勝っても、PCエンジンと競り合ったメガドライブ
『スーパーサンダーブレード』に『スペースハリアーII』『スーパーハングオン』など自社のビッグタイトルに加えて、カプコンのヒット作『大魔界村』や『フォゴットンワールズ』『ストライダー飛竜』、パソコンゲームのヒット作『ソーサリアン』や『スーパー大戦略』などを揃え、一見好調な滑り出しのように見えたメガドライブ。しかし、メガドライブよりも少しだけ早く発売したNECのPCエンジンという強力なライバルに阻まれ、なかなか天下を取れずに困っていたのも事実。ライバルのPCエンジンはCD-ROMドライブを発売し、それまでのゲーム機にはなかった、TVアニメのようなデモシーンや、声優さんが喋る生音声。音楽CDから流れる生音BGMなど、新しいゲーム世代の訪れを感じさせるようなタイトルを連発。メガドライブも『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のような、後世のセガに残るようなキャラクターを生み出しつつも、メガ-CDという外付けCD-ROMドライブの、投入が遅れるなどの理由からソフトのラインナップがなかなか揃わず、苦戦を強いられることに。
そうこうしていた1990年。ついに、恐れていた任天堂の新ハード、スーパーファミコンが発売されました。

■1990年/スーパーファミコン登場により劣勢に追い込まれたメガドライブは…
これは、メガドライブにとって本当に手痛い出来事でした。メガ-CDは市場投入が遅れたこともありソフトのラインナップがなかなか充実せず、CD-ROMを使ったアニメーションや生音といった演出のお株はPCエンジンに。そういった演出を除いた、ゲームシステムで楽しませる系のゲームはメガドライブ…となるはずが、スーパーファミコンに根こそぎ奪い取られてしまったのです。

ですが、みすみすユーザーを奪い取られていくセガではありませんでした。新ハードを開発する時間的余裕はない…けれども、より優れたハードを発売しなければ、スーパーファミコンに勝つことはできない…いや、この「ハードが優れていれば勝てる」という発想自体、若干市場のニーズとズレていたのかもしれませんが、当時はまだ家庭用ゲーム機の性能がアーケードゲームの性能に追いつけていなかったので、「より高い性能を持ったハードがあれば、よりアーケードゲームに近いゲームが作れる」という目標があったのでしょう。

その結果、生み出されたのはメガ-CDを含む、いくつかの周辺機器です。

■性能が足りなきゃ、ハードを継ぎ足せばいいという男の子発想
手始めは、セガ・マークIIIのソフトを挿入できるカードリッジスロット&カードスロットを備えた拡張ユニット「メガアダプタ」。ソフト不足だったメガドライブを救済するために開発されたと考えられています。

次に、メガモデム。電話のモジュラーケーブルを差し込み、電話回線を通じてセガのサーバからゲームソフトやデータをダウンロードするという仕組みに対応させるための周辺機器でした。発売時、まだ1990年ですよ? 日本のインターネットはWindows 95で一般の人がアクセスできるようになり、Windows 98で普及したと言われているのに、Windowsなんて影も形もなかった頃から、メガドライブはネットワークを通じてデータのダウンロードをしていたのです。すげぇ。

注目すべきは、1994年に発売した「スーパー32X」。その名の通り、32ビット(メガドライブ本体は16ビット)CPUを搭載したパワーアップユニットなのですが、発売されたのは次世代ゲーム機、セガサターンよりも後の12月3日。そう、奇しくもPlayStationと同じ日でした。

スーパー32Xを装着したメガドライブは、まさに乗用車にF-1のエンジンを載せたかのように、「外観は同じなんだけど、性能が桁違い」という、男の子スピリッツをくすぐりまくる仕様。でも、日本市場向けにはすでにセガサターンが発売され、広告宣伝もサターンのものばかりが展開されたために32Xは闇に埋もれたハードとなりました。そもそも、32Xはメガドライブの普及率が高かった欧米とブラジル市場向けに開発されたものなので、役割は果たしたのかもしれませんが…。こんな不器用なセガが、大好きです!

■1994年/たった1本の続編ソフトが決めた、サターンの未来
任天堂がスーパーファミコンの後継機をなかなか発売せず、直接の競合だった3DOがいまいち奮わなかった当時、一時的ではありますがセガサターンが日本のゲーム市場のトップに立っていた時期もありました。もちろん、PlayStationと僅差ではあったものの、見慣れない(粗い)ポリゴン中心のPlayStationよりも、見慣れたきれいな2Dグラフィックを表示できるサターンの方が、それまでのゲーマーに受け入れられたということだったのかもしれません。

そんなセガサターンに、悲報が聞こえてきます。超人気ソフト『ファイナルファンタジー』の新作が、PlayStationのみで、しかもポリゴン表示で発売されるという話です。発表時、まだ発売までは少し時間がありましたが、「次のFFが遊べるハード」という魅力は非常に大きく、どちらを買おうかと迷っていたユーザーたちの目線を集めるのに充分な威力を持っていたのです。この日を境に、セガサターンの立場は日に日に弱まっていくのを感じていました。

■1995年/自らの強さを活かしたタイトルで勝負
では、サターンならではのタイトルはなかったのかといえば、そうでもない。
当時、時代は対戦格闘ゲームブームのまっただ中。3D対戦格闘はPlayStationでも『鉄拳』シリーズが遊べたが、当時人気だった『ストリートファイターII』シリーズや『ヴァンパイア』シリーズといった2D対戦格闘ゲームはグラフィックデータが膨大となるため、メインメモリーが多いサターンですらメモリ不足に陥るほどだった。
そんな状況に頭を悩ませていた当時のカプコン開発が、セガに「メモリを増やすための周辺機器を作ってくれ」と依頼。その結果、「拡張RAMカートリッジ」が誕生する。これを装着したセガサターンはメインメモリが倍増するため、『ヴァンパイア ハンター』のような2D格闘ゲームのグラフィックをCD-ROMから一気に読み込むことができるというわけ。ゲームアーツの社長さんと拡張RAMカートリッジの雑談をした際、「RAMカートリッジはね、サターンを何倍にもパワーアップさせる可能性があるんだよ。ちょうど、ガンダムGP03サイサリスが、デンドロビウムと合体するくらいのもの。もう、凄いんだよ」と、嬉しそうに語っていたのが印象深かったです。
しかし、対戦格闘ゲームのファンは「本物はアーケードゲーム」と割り切っている人も多く(対戦相手もゲームセンターに行かないと会えないし)、こうしたクオリティの高い2D対戦格闘ゲームが遊べるという点はそれほど高く評価されることもなく、少しずつPlayStationとの人気の差は拡がってゆくばかりだった。

■セガサターンのバリエーション
サターンの歴史を終える前に、一つお伝えしておきたいことがありました。それは、サターンは過去のセガハードとしては珍しく、さまざまなメーカーからOEM品が発売されていたことです。
厳密にはメガドライブの時代にもラジカセ一体型のものや、飛行機内用の暇つぶし目的メガドライブなども出ていましたが、サターンでのOEMはひと味違います。
たとえば、Vサターン。中身はほぼ一緒なのですが、ビクターから発売したことで「V」サターンという名称に。起動時のロゴが違うだけかと思いきや、いくつかのゲームで不具合が起きるなどの差も見られました。僕はこれを使ってました…。
次にHiサターン。これは日立から発売されたことで「Hi」サターンなわけですが、通常のセガサターンに較べてビデオCDやフォトCDを再生するための機器を内蔵していたため、やや高額な値段設定になっていました。日立からはこのほかにも、カーナビの本体としてサターンを利用する「ゲーム&カーナビ ハイサターン」も発売されていたのが印象的です。
若干知名度が低いところで言いますと、現在はAndroid端末である「GALAXY」シリーズを作っている韓国のサムスン電子もサターンを作っており、その名も「サムスンサターン」というものでした。メニューは英語なのにリージョンコードは日本のソフトが動くという、やや変わり種のサターンでした。
完全に余談ですが、当時セガが作っていた業務用カラオケシステム「Prologue 21」は、サターンの基盤をベースにしていました。

■1998年/まさに社運を賭けた、最後のゲーム専用機Dreamcast
1996年に発売したニンテンドウ64とはいい勝負でしたが、PlayStationには圧倒的に負けていたセガサターン。その状況から脱するため、セガ渾身の作として開発したのが、セガ最後の家庭用ゲーム専用機「Dreamcast」です。
パソコン用ディスプレイを使える高解像度映像出力に、インターネット接続用のアナログモデムを「標準」搭載するという先進ぶり。コントローラのデザインも、まるで現在のニンテンドー3DSを彷彿とさせるようなボタンとスティック配置。コントローラには小さな液晶ディスプレイを装備したメモリーカードを挿し、まるでニンテンドー3DSの下画面や、Wii Uのゲームパッドのような使い方ができる…と書いていると、明らかにDreamcastは時代を先取りしすぎていたことがわかる。いいんだけど、未成熟な状態で、見切り発車で標準搭載。そんなやんちゃ振りが、セガらしくて大好き!

ソフトも『バーチャファイター3tb』や『セガラリー2』『ポップンミュージック』に『サイキックフォース2012』など、ゲームセンターで人気のタイトルが続々登場。正直、オリジナルの人気タイトルは乏しかったが、世界初の家庭用ゲーム機向けオンラインRPG『ファンタシースターオンライン』が登場したのは、Dreamcastがインターネット接続機器を「標準」搭載していたことに他ならない。このソフトがなければ、PlayStation 2用モデムの登場も、もう数年遅れていたような気がします。

ゲームセンター級のゲームが、てんこもり。まさに、そんな言葉が似合う環境が揃っていたDreamcastですが、筆者である僕もどうしてあそこまで人気がなかったのか、ちょっと信じられないほどでした。それまでに、PlayStationが作り上げたポジティブなイメージがPlayStation 2へと受け継がれるとは、思ってもみませんでした。それは、スーパーファミコンで成功した任天堂が、ニンテンドウ64で失敗したのを見ていただけに、なおさら。

■1996年/テレビCFに力を入れ、起死回生に賭ける
おそらく、セガ社内でも起死回生の策をいろいろと練ったのでしょう。その結果、PlayStationのような「ゲームリテラシーが低い層に響く、ライトでユニークなテレビCF」という方向性も模索することになります。その結果生まれたのが、セガサターン時代には白いセガサターン発売に合わせてイメージキャラクター「せがた三四郎」(俳優は『仮面ライダー』の主役を務めた藤岡弘、)を登場させたり、Dreamcastが劣勢になってからは、日本では珍しい比較広告…さらに、PlayStationに対する負けを認めるという自虐ネタを盛り込むようになりました。
セリフの中で「セガなんてだっせ〜よな、プレステのほうが面白いよな」と言わせるために、ソニーに対して「CFの中で登録商標のプレステという言葉を使う」許諾を得てまで言わせるほどの力の入れよう。数々のCFの仕掛け人が、今やAKB48の仕掛け人として有名な秋元康氏だと言えば、その奇抜さも納得できるというもの。

■1997年/センダイが誕生しそうだった?
かつて『ファイナルファンタジー』シリーズ最新作がPlayStationで発売されることがサターンの息の根を止めたことがまだ記憶に新しいまま、今度は『ドラゴンクエスト』最新作もPlayStaionで発売されるという発表。さすがのセガ経営陣も諦めたのか、この直後にバンダイとの合併を発表し、新社名も「セガバンダイ」と告知した。「バンダイと合併したら、セガらしさが失われる。止めてくれ」と考えた(僕を含む)ファンたちはバンダイとの合併を冷やかす意味も含め「新社名? センダイじゃないの?」などとバカにするのが流行っていた時期もあった。
結果的には、『たまごっち』の大ヒットがどの程度影響したのかはわからないが、バンダイ側から合併解消の申し入れがあり、合併せずに終わることになったのだが。

■1999年/ノストラダムスの終末論とDreamcast
本体価格を29,800円から19,900円へ下げ、TSUTAYAと提携してソフトの体験版を置いてもらうなどの実験的サービスを始めるも人気は奮わず。会長の個人資産850億円を譲渡してもらい立て直し施策を実行するも、2001年3月末を以てDreamcastの生産中止を決意。おそらく苦渋の決断だったとは思いますが、会社を存続させるためには仕方のない判断だったのでしょう。プライドを捨て、未来のセガを考え、その勇気ある決断を下した方を、僕は尊敬しています。その姿は、まるで『宇宙戦艦ヤマト』の沖田艦長とも重なるほどで。

■2003年/ソフトメーカーとしてのセガ
『バーチャファイターシリーズ』、『サクラ大戦シリーズ』、『ソニックシリーズ』などを擁するセガは、ハードの製造を諦めたことでPlayStationやゲームキューブへとソフトを供給する、コナミやバンダイナムコゲームス、カプコンなどと並ぶ「大手ソフトメーカー」として歩み始めることになる。
それだけに、2003年にはナムコやサミーとの合併が計画され、一度は破談となったものの2004年にはサミーの100%子会社となる。パチンコやパチスロのメーカーとして膨大な資金源を持つサミーの子会社になることで悩みの種だった資金問題も解消され、今や世界を代表するゲームソフト販売元として、家庭用ゲームからアーケードゲーム、そしてネットワークゲームやソーシャルゲームまで、幅広く手がける巨大ゲーム企業へと成長したのです。

セガはまだ、活きているんです。
セガ魂も、活きているんです。
そんなセガが、僕は大好きです。

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追記:ゲームキャラの変遷についても
MW岩井さんに教えていただきました☆

大きく分けて2Dグラフィック時代と3Dグラフィク時代に大別されます。
2D時代は粗いドットで表現しても「ここに手がある」とわかるように、
リュウに手甲ガードをつけたり、春麗に腕輪を付けたりする「記号化」作業が
必要だったので、わかりやすいパーツやシルエットで個性を表現する
必要があったのね。

ところがポリゴン時代になって絵を貼付けられるようになったことで、
デザインの幅は広がった反面、突飛なデザインが生まれ辛くはなったかな、とは思ってるよ。

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